2015-08-06 第189回国会 衆議院 東日本大震災復興特別委員会 第6号
それから、これまた先輩の宮沢賢治も、彼は童話作家、詩人ということでありますけれども、岩手はたびたび冷害があって農業が厳しい、そういう中で、自分も農学校を出たものですから、土壌の改良だということで、石灰石の採掘ということで、その採掘したところが、岩手の一関市の東山町の陸中松川というところの駅の近くの工場でありまして、そこで働いて、その駅周辺のことをたびたび書いておるところであります。
それから、これまた先輩の宮沢賢治も、彼は童話作家、詩人ということでありますけれども、岩手はたびたび冷害があって農業が厳しい、そういう中で、自分も農学校を出たものですから、土壌の改良だということで、石灰石の採掘ということで、その採掘したところが、岩手の一関市の東山町の陸中松川というところの駅の近くの工場でありまして、そこで働いて、その駅周辺のことをたびたび書いておるところであります。
外国人の側でいえば、明治の初め日本が先進的な技術、文化、これを導入するために、例えば法律の世界であったらボアソナードであったり、あるいは札幌農学校のクラーク博士であったり、ラフカディオ・ハーン、小泉八雲であったり、あの「坂の上の雲」ではメッケルというのもありました。
そういうことを思い出しながら、また時代がいよいよこれから基盤を整備していこうというときには、日本の近現代史を見たときに、札幌の農学校ができて、それでそこにクラーク博士をアメリカから迎えた。彼はそんなに長期はいないんですね。一年近くか一年前後ぐらいですよ。ところが、どれほどその後、日本の北海道と関係ないところの青少年たちにも大きな夢を与えたか。
今も、イメージしただけで、何人か声を掛けて、この人と一緒に夜学なり農学校をやってみたいなと思う人っているんですよ。それは、きっとJICAの方にいっぱいいると思います。
それだけ農家の皆さんが、長い間、私の地元の農学校なんかは流汗悟道という教えがありますが、精神論も含めて、文化を含めて農業をやってきた。そこに対する国の支援がこれまで大変薄くなってきたのではないか、どうしても合理性にのまれてしまったのではないだろうか。
○国務大臣(町村信孝君) ちょっと違う話ですけれども、今思い出したんですが、札幌農学校のクラーク博士が、学校を開いたときに、当時の明治政府のお役人が事細かな学則、学校の規則を原案として作って、クラーク総長ですかな、学長にお見せしたそうであります。そのときクラーク博士は、こういうものは要らないと、ビー・ジェントルマン、紳士たれと、その一項だけでいいと。
ちなみに、明治の初めに、高等教育機関、昔の、札幌農学校の前身の開拓使仮学校でありますとか、東大の前身の工部大学校、それから一橋の前身の商法講習所、こういうところへ五百人のお雇い外国人教師を呼んだわけですね、先生がいないと。そのうち三百五十人が英国から来ましたが、そのほとんどに、当時の伊藤博文首相よりも高い給料を払っているわけです。それをやっただけに物すごい一流の人が来た。
私は実は農学校出身で、家畜も育て作物も育て、物を育てることの重要性と物を育てることの喜びと、またそういうことを非常に実感してきているんですが、都会の人はそういうことが余り実感できていないんですね。よって、本当に子供を産んで育児が本当にすばらしい仕事だと、こういうことが本当は実感できるのが私は最大の少子化対策だと思うんですね。
北海道は、札幌農学校ができまして、大学で試験研究も教育も普及もみんなやっていたんです。それで、都市化してきたんで、今、見晴らし台があるところに試験研究所が移ったんです。それで、戦後どうなったかというと、もう一つ転機が訪れるわけです。GHQが、やたら地方自治の確立ということで、どうしても北海道でも道立の試験研究機関をつくらなければいけないというふうに圧力をかけてきたわけです。
○田村秀昭君 昭和十七年というのは戦争中でしたけれども、我が国は南方特別留学生制度というのをつくりまして、東南アジアの若い青年を東京と座間の陸軍士官学校と、それから宮崎の農学校に研修をさせた制度がありました。その卒業生の一人にマレーシアのラジャー・ダト・ノンチェックという上院議員がおります。
簡単には進まないんですし、非常に難しい点がありますけれども、先ほど言いましたような自分ブランドを作るとか、それから、そういうことでの農学校みたいな、間に入ったステップができないかななどというようなことを企画しているところです。
彼が花巻農学校の教師をやっているときに、一九二七年のことです、まさに昭和の初年ですね、最初の卒業生を出すとき、「生徒諸君に寄せる」という詩をつくりました。これは未完の詩で、全集にさまざまな形で収録されています。その冒頭、何と書いているか。
実は私、昭和三十四年に地元の農学校を終わりまして、それ以来農業に従事しております。昭和三十五年に農業基本法が制定されましたから、私の農業人生はこの昭和三十五年以降の農業基本法と一緒に歩んできたというふうに言ってもいいと思います。
先ほども言いましたように、農学校の同級生で集まった組織があるんですが、そこでの議論は、いや、もっと将来増額するように運動しようというふうに、むしろそういう方向なんですね。このままでいいなんというふうにはだれも言っていません。ましてや削減されることは、これはだめだというのが、多分こちらの参考人の方々も地域に帰ればみんなそういうふうな話を受けるだろうというふうに思っています。
クラーク博士、ボーイズ・ビー・アンビシャスという、あの札幌農学校のクラーク博士はたくさんの種を青年たちにまいていったわけでございますけれども、一期生は何と二十四人でございました。教育改革国民会議の座長の江崎玲於奈さんも一クラス二十四人ぐらいがいいのではないかと言われておりましたし、また、元文部大臣の有馬さんも三十人ぐらいがいいのではないかというふうに言われておりました。
○田村秀昭君 時間がありませんので、また外務大臣のお話を承りたいと思いますが、一つ戦時中、南方特別留学生制度というのがございまして、御承知だと思うんですが、アジアの人たちを日本に呼んで東大と陸軍士官学校と宮崎の農学校で教育をした、勉強をした。それで、その人たちが戦後、各国に帰って指導者になり独立をかち得たという事実があります。
そういいますのも、かつて私、北欧の農学校、園芸学校で学んだ経験がございますので、一つに、そういうような向こうの農業形態をイメージしているからでもあります。 そういう観点からいたしまして、北海道が三割農政に、農家数が減少した、それも膨大な負債を背負っての結果だといいましても、しかし数字から見ますと、EUの農業形態と大体対抗できる数になってきている。
そこで、昔の北海道のいわゆる札幌農学校ですけれども、あそこで傑物を出したクラーク博士は何と言ったかというと、実りある教育はどれだけ多くの知識を与えるかではなくて、どれだけすぐれた人間を育てるかにあると。乱暴な言い方をすれば、猿を人間にするのが教育なんですよ。猿のまま知識を与えるからろくでもないことをやるんです。それだけのことなんです。それを既に間違っていたということです。
次に、私は二十代に農業に従事しておりまして、ノルウェーの農学校、園芸学校にも一時期留学しましたから、農産物の国際自由化がなされてもそれに対抗できる日本農業の確立を図るべきだと主張し、またそれができると今でも自信を持っているものでございます。
日本の場合には農家所得というものが不安定だから、若い者が農学校を出ても、農業に従事しないでみんな加工業の方に行ってしまう。こういう状態を直さない限り日本の農業の将来というのは非常に危険だ、こういうふうに考えているわけです。
現状では、例えばの話で恐縮でございますが、農学校なども、どうしても行けないからしようがなく農学校へ行くんだと、おれは百姓やる気はないよというような子供が実は入ったりする。これは国家的に言いましても、本人にとっても学校の先生にとっても非常にやりがいのないことでございます。
これは先生御承知のように、明治時代の教育者、アメリカから来られて、北海道の現在の北海道大学の前身である農学校に働かれて、教育に携わられたクラーク博士のボーイズ・ビー・アンビシャスという言葉が、まさに日本語でいえば志は高く、大志を抱けというふうに訳されているかと思いますが、私なりに言えば「志は高く」だというふうに思っているわけでございます。